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ドヴォジャークの生涯  関根日出男

1841年9月初旬、プラハの北、約30キロのネラホゼヴェス(ミュールハウゼン)村に生まれた。土地の神父や音楽教師は優れた音楽家で、彼の父もツィターを弾き、親戚にはヴァイオリンやトランペットの名手もいた。

ドヴォジャークの父 

1851年4月、北ボヘミアのアボドモクリまでの鉄道が開通、彼は当時すでに絶対音感を持っていた。村長宅の鳩を羨んだが、鳩を飼おうという念願はのちに叶えられた。

1854年(13)叔父ズデニェクが神父をしているズロニツェ村で、カントルのリーマンに音楽を学ぶ。この村は冒険家イングリシの生地でもあり、ドヴォジャーク記念館の一部が、彼の記念室になっている。

1857~59年(16~18)プラハのオルガン学校に入る。近くの今日のフス通りの従姉マリエの嫁ぎ先、仕立屋プリーヴァ宅に下宿。アプト(1815~87)主宰のチェチリア協会オーケストラ(1840~65、117回コンサート)でアルバイト。

1859~62年(18~21)コムザーク楽団に入り、ハンブルクへも演奏旅行。

1862~71年(21~30)仮劇場ヴィオラ奏者となり、「魔弾の射手」「ユグノー教徒」でヴィオラ・ソロも弾いた。ヴァーグナーの指揮(楽員を鞭で殴る)で彼の作品を弾き、スメタナの指揮のもと、彼自身やベートーヴェン、ロッシーニ、グリンカ、リスト、グノー、モニウシコらの作品を弾く。徴兵義務を3回とも免除さる。
金細工商チェルマークの二人の娘にピアノを教え始める。

1865年(24)姉娘で女優の卵、ヨゼフィナに失恋、歌曲集「いとすぎ」18曲を書く。

1873年(32)カンタータ「ビーラー・ホラの後継者」の成功で作曲家と認めらる。チェルマーク家の2番目の娘アンナと結婚。

 アンナ

1874~77年(33~36)ヴォイチェフ教会オルガニスト。

1875年(34)モラヴィア出身の豪商ネフの依頼で作曲した「モラヴィア二重唱曲集」でヴィーンから奨学金を貰う。

1876~79年(35~38)ヤナーチェク、ブラームスと交友をはじめる。

1880年(39) 「ジプシーの旋律」作曲。ベルリン、ヴィーン、ケルンなどに旅。

1884~91年(43~50)8回のイギリス訪問。イギリスでの印象を「料理はまずいが聴衆や会場はよい」と語っていた。

1885年(44)義兄コウニツ伯爵(ヨゼフィナの夫)よりヴィソカー村の別荘を買う。

1886年(45)「民謡調で」を作曲。

1888年(47)「愛の歌」(「いとすぎ」による)作曲。チェイコフスキーと知り合う。

1890年(49)ロシア訪問。

1892年9月末~1895年5月(51~54)アメリカ。

1896年(55)9回目、最後のイギリス訪問。

1901年(60)「ルサルカ」初演。

1904年5月1日(62)身体は丈夫で船酔いもしなかったが、頭痛に悩まされた末、脳溢血で死去。

作曲家:
「彼みたいにさっと楽想が浮かぶといいんだが」とブラームスをして言わしめた。午前中3時間、時には午後も、作曲に熱中しパイプを落として床を焦がすこともしばしば。自力で作曲を学び、裕福な学友ベンドルから借りたスコアを、徹夜で読み、晩年は国民劇場図書館に通い、古典形式の法則、シューベルトの旋律、ブラームスからはよどみない流れと純粋さ、スメタナからは民族的色彩を学んだ。
作曲法:テーマ再現時には、伴奏や和声を変え、低音または高音に対旋律を入れる。声部処理の問題はポリフォニーと結びつき、それは「交響変奏曲」や「レクイエム」のフーガに見られる。和声で調性のかけ離れたDes とG 主和音の見事な対比は、「ルサルカ」のフィナーレで「君に抱かれ幸せのうちに死んでゆく」と王子が歌う場面のオーケストレーションに見られる。同名長短調の頻繁な交代は、『新世界』のフィナーレ直前のe=E の処理は名人芸と言える。オーストレーションの好例は『スラヴ舞曲集』で、「どんな管弦楽法の本がいいか」という質問にブラームスは「ドヴォジャークのスコアを2、3買い給え」と答えている。ソナタ形式の交響曲や室内楽に「フリアント」や「ドゥムカ」などの舞曲を入れた。
郷愁を感じさせる暖かく美しい旋律、躍動するリズム、色彩豊かであくまでも保守的作風に裏づけされた彼の作品は、指揮者リヒター、トスカニーニ、ヘルメスベルガー、ヨアヒム弦楽四重奏団などが盛んにとり上げていた。

教育家:
スーク、ノヴァーク、ネドバル、カレル、フチーク、コツィアン、フリムル(オペレッタ「放浪の王子」に出てくる旋律が、「蒲田行進曲」に引用されている)。
実例をピアノで弾き、黒板に書いて講義した。生徒の作った作品は、自分で欠点を見つけるよう指導、即興演奏もさせた。精通していた楽器編成については特に入念に抗議。「トアイアングル事件」:ある時ドヴォジャークは生徒の書いたオーケストラ作品から、トライアングルを除くよう指示した。数日後、生徒が再提出したスコアを見た師は「君、ここに何か足りないものがあると思うが」と言った。生徒があらゆる楽器の名前をあげたが、ドヴォジャークは首を縦に振らず、最後に勝ち誇ったように宣言した「君、トライアングルだよ!」。

「アメリカ国民音楽への黒人霊歌の意義」や、「シューベルト音楽についての考察」について、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙に寄稿。

指揮者:
フラホル合唱協会で「ミサ・ソレムニス」の練習中、ティンパニ奏者の叩き方が気に入らず、バチをひったくって叩いた所、先が飛んで窓ガラスを破った。
手の動きは小さいが、左手の指で個々のリズムを最後まで上手に引き出し、テンポは今日とほぼ変らず、どんな間違いも見逃さなかった。「ボヘミアの味というのは、チェコ人でないと出せない」。アメリカではシューベルトの5,6番を12回も指揮している。

日常生活:
「陽が沈み、空が茜色に染まって聖アンデレ教会の鐘が鳴ると、鉄道建設現場の荒くれ男たちも帽子をとり十字を切った」という敬虔な人たちの間で育った彼は信仰心あつく、作品の最後には必ず「神のみ恵みのもとに」と記した。
晩年は柔らかい緑色のハンチングを被り、ステッキやこうもり傘を振り回し歩いていた。ヴィソカーの別荘では毎日曜、友人と九柱戯をやり、夜は葉巻をくゆらせながら鉱夫たちと居酒屋でトランプをやり、プラハでは昼食後、茶房で新聞の政治、文化欄に目を通していた。
ローマだけは訪れなかったが、世界各地を旅して廻ったのは、経済的に不遇だったスメタナの晩年の惨状を見て、子供たちの将来を考えてのことだった。1904年5月にはヴィシェフラト通りの立派な新築の家に越す予定だった。

ドヴォジャークの表記:
ドヴォジャークは当初、ジムロックが r や a の上の記号をつけないと文句を言い、自説を押し通した。


【作品】

オペラ(10)

1.アルフレード(ケルナー):B.16,(1870)
イギリス王アルフレトが、デンマークの王子との戦いで花嫁を救出する。
序曲には「インターナショナル」そっくりの旋律が出てくるが、「インターナショナル」は、1888年6月18日リールでの第2回インターで歌われた、ピエール・デジェイテル(1848~1932)がウージェーヌ・ポティエ1871年作の詩につけたもの。

2.王様と炭焼(ロベツキー): 作品14.B.21,(1871), B.42(1874)
コペツキーの人形劇による。同じ台本に全く異なる曲をつけた。狩に出た王様が炭焼き小屋で、娘をからかい、恋人と争うが、最後には二人を城に招待する。
3.意地っぱりな恋人たち(シュトルバ): 作品17.B.46(1874)
頑固な恋人を丸く納める話。
4.ワンダ(シュマフスキー):作品25,B.55(1875) 「糸杉」
ポーランドの王女がドイツの支配者の妻になることを拒み、ヴィスワ川に身を投げて故国を救う。
5.策を弄した農場主(ヴェセリー):作品37,B.67(1878)
舞台を農村に移した「フィガロの結婚」の二番煎じ。
6.ディミトリイ(チェルヴィンコヴァー):作品64,B.127(1884)
「ボリス・ゴドノフ」の続編。
7.ジャコバン党員(チェルヴィンコヴァー):作品84,B.27(1887)
永年フランスにいた伯爵の息子夫妻が、遺産を狙う従兄弟に『ジャコバン党員』と中傷されるが、最後は目出度い幕となる。ズロニツェの先生リーマンの娘テリンカへの恋心が描かれており、ズロニツェの記念館の黒板には、2幕の児童合唱の楽譜が書いてあった。
8.悪魔とカーチャ(ヴェーニグ): 作品112,B.201(1898)
性悪な女領主を地獄へ連れてゆこうとした、のろまな悪魔が、おしゃべりカーチャに言い寄られ、失敗する民話による。
9.ルサルカ(クヴァピル):作品114,B.203(1900)
「月に寄せるアリア」の原型は、18曲ある「いとすぎ」の11番「ああ、この愛に何と棘と痛みの多いこと、この愛は夢のように過ぎ去る」を引用した作品2、B124(1882年作)「4つの歌」の3番目と同じ変長調。
10.アルミーダ(ヴルフリツキー): 作品115,B.206(1902)
十字軍兵士とアラブの王女の悲恋物語。この主題をもとに古今東西数十人の作曲家がオペラを書いている。

ピアノ伴奏 歌曲集15、歌曲2(97曲)

1.「18のいとすぎ」プレーガー=モラフスキーの詩: B.11 (1865)
2.「2つの歌」ヘイドゥクの詩: B.13 (1865)
3.「5つの歌」クラースノホルスカーの詩: B.23 (1871)
4.「2つの歌」エルベンの詩: B.24 (1871)
5.「4つの歌」セルビア民俗詩による: B.29 (1872)作品6
6.「6つの歌」ドヴール・クラーロヴェー手稿による: B.30 (1872)
  作品7
7.「12の夕べの歌」ハーレクの詩:B.61 (1876)
8.「3つのギリシャの歌」ネベスキー訳詞: B.84 (1878)作品50
9.「7つのジプシーの旋律」ヘイドゥクの詩: B.104 (1880)作品55
メリメ(考古学者、歴史家、言語学者、プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリの作品を翻訳、1845年作の末尾にジプシーについて触れ、彼らは16世紀初頭ヨーロッパに来て、エジプトを故国のように言ってたが、作り話に過ぎなず、インドから来たのだと明言していた。フランスの隠語にジプシーの言葉が多く使われている。
10.「4つの歌」モラフスキーの詩: B.124 (1882)作品2
11.「2つの歌」民俗詩による: B.142 (1885)
12.「4つの民謡調で」民俗詩による: B.146 (1886)作品73
13.「4つの歌」マリブロク=シュティーラー: B.157 (1888)作品82
ヨゼフィナの好きだった第1曲「私にかまわないで」をドヴォジャークはチェロ協奏曲に引用している。
14.「8つの愛の歌」モラフスキーの詩: B.160 (1887-88)作品83
15.「10の聖書歌曲集」: B.185 (1894)作品99
16.「子守唄」イェリーネクの詩: B.194 (1895)
17.「レシェチンスキーの鍛冶屋の歌」チェフの詩: B.204 (1901)

オルガン伴奏歌曲(3)

1.アヴェ・マリア:作品19b, B.68(1877)
2.至聖三位一体への賛歌:B.82(1878)
3.アヴェ・マリス・ステラ:作品19b,B.95(1879)

二重唱曲(22)

4つのモラヴィア二重唱曲(S.T, ピアノ伴奏):作品20, B.50(1875)
12のモラヴィアニ重唱曲(S.A, ピアノ伴奏):作品60, B.62(1876)
4つのモラヴィアニ重唱曲(S.A, ピアノ伴奏):作品38, B.69(1877)
聖なるかな(S.A, ピアノ伴奏)B.95a(1879)
二声のための「子供の歌」(無伴奏)B.113(1880)
「おらが家の屋根に」(S.A, ピアノ伴奏)B.118(1881)

男声合唱曲(16)

民俗詩とヘイドゥクの詩による3曲:B.66(1877)
ボヘミア民謡の花束(4曲):作品41, B.72(1877)
チェコの歌:B.73(1877)
スラヴ民謡の花束(3曲):作品43, B.76(1877?78)
リトワニア民謡の歌詞による5曲:作品27, B.87(1878)

女声合唱曲(4)

4つのモラヴィア二重唱曲(女声4声):B.107(1880)

混声合唱曲(10)

ヘイドゥクの詩とモラヴィア民俗詩による4曲:作品29, B.59(1876)
自然の中で(5曲):作品62, B.126(1882)
ボヘミア農民賛歌:作品28, B.143(1885)

カンタータ、ミサ、オラトリオ(10)

1.ビーラー・ホラの後継者:作品 27,B. 27(ハーレク)
2.スターバト・マーテル: 作品 58,B. 71
3.詩篇149: 作品79,B.91
4.幽霊の花嫁: 作品69,B.135(エルベン)
5.聖ルドミラ 作品71,B.144(ヴルフリツキー):
6.ニ長調ミサ曲: 作品86,B.153
7.レクイエム: 作品89.B.165
8.テ・デウム: 作品103,B.176
9.アメリカの旗: 作品102,B.177
10.祝典歌: 作品113.B.202

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